日本でも歯科の器具の使い回しは法律で規制されていませんが、アメリカではすでに法律で器具の滅菌が義務つけられています。

NPO法人GINA Blogからの転写です。

 

米国オクラホマ州で、歯科医院での治療を受けた患者がHIVとC型肝炎ウイルス(以下、HCV)に院内感染していたことが明らかとなりました。

2013年3月28日、同州の保健当局は、同州タルサにあるこの歯科医院で治療を受けたおよそ7千人にHIVとHCVの検査を呼び掛けました(注1)。

HIVとHCVに感染したその人が、その歯科医院の治療で感染したことを証明するのは簡単ではないと思いますが、報道からはその詳細までは分からないものの、保健当局の綿密な調査により院内感染であることが「確定」したそうです。

 

報道によれば、この歯科医院では医療器具を複数の患者に使い回ししており、滅菌処置を怠っていたことが調査により明らかになっています。
世界に目を向けてみると、過去にはリビアでの集団HIV院内感染事件や、カザフスタンでの院内感染が報告されたことがあります。しかし、アメリカでの院内感染、それもその理由が「医療器具の使い回し」であることが判明したわけですから、この事件はアメリカ人にとって大変ショッキングなものでしょう。

 

では日本ではありえない話なのか、ということを考えたいのですが、その前に、アメリカの歯科医院でHIV感染、となると、どうしても触れないわけにはいかない事件について述べていきたいと思います。

「キンバリー事件」という事件を聞いたことがあるでしょうか。

 

1991年9月、キンバリー・バーガリスという名の20代前半の米国人女性が車椅子で米国連邦議会の公聴会に出席し証言しました。この女性は、敬虔なクリスチャンであり、性交渉の経験がなく、違法薬物の針の使い回しなどHIVに感染する要因がまったくないのにもかかわらずHIVに感染しエイズを発症しました。調査の結果、キンバリーさんが通院していた歯科医院でHIVに感染したことが明らかとなったのです。

 

当時のマスコミは、車椅子に座り必死で証言するキンバリーさんの様子を中継し、全米で(あるいは全世界で)かなりセンセーショナルな事件と捉えられました。

 

1987年12月、当時19歳だった彼女は近所の歯科医院で治療を受け、歯科医師デイビット・アーサーから感染させられたのです。この時期、すでにこの歯科医師はエイズを発症していたらしく、1990年9月に死亡しています。

 

1991年当時、HIVには有効な薬剤が存在していませんでした。車椅子の生活を余儀なくされていたキンバリーさんは、HIV感染により神経系にも障害をきたしていたのでしょう。この時点でエイズが相当進行した状態であったと言えます。1991年12月8日、キンバリーさんは23歳という若さで他界されました。

 

90年代前半、私自身が何をしていたかというと、大阪でサラリーマンをしていました。大阪のある商社の海外事業部に所属していた私は、アメリカ人の歯学部の学者と仕事を共にする機会がありました。その学者は米国で歯科衛生士に教育をする立場にあり、日本の衛生士にも知識と技術を伝えるために来日していたのです。

 

当時はまさか将来自分が医師になりHIVに関する活動をするなどとは考えたこともなかったのですが、キンバリー事件が気になっていた私は、この学者に、「感染力がさほど強くないHIVが、歯科医師から患者に感染するなどということが本当にあるのか」、という質問をしてみました。

 

この学者の返答は、「HIVは感染力が大変弱く、通常の診療行為であれば治療者から患者に感染するとは考えられない。キンバリー事件は、歯科医師が”故意に”感染させたとしか思えない」、というものでした。さらに彼女(この学者)は、「これは私だけの考えではなく、米国の医療関係者の間で一致している意見である」、と言っていました。

 

なぜ、歯科医師が自分の患者に自分のHIVを故意にうつす、などという理解不能な行為に出たのかはわかりませんが、「これは極めて特殊なケースであり、歯科治療でHIVの院内感染が起こるなんてありえない」、と当時の私は納得しました。

 

しかし、ずっと後になってから、歯科医院が故意にHIVをうつした、のではなく、この事件は医療器具の使い回しによる院内感染ではないか、とみる意見が有力視されるようになってきたことを知りました。

 

なぜ、歯科医師からキンバリーさんにHIVが感染したことが確実とみなされたかというと、その歯科医師に感染していたウイルスとキンバリーさんに感染していたウイルスの遺伝子が一致したからです。このことから、他にリスクのないキンバリーさんは、歯科医院でその歯科医から感染したことが間違いないと見なされたわけです。

 

その後の調査で、この歯科医院でHIVに感染したのはキンバリーさんだけでないことが判りました。他に5人の患者がこの歯科医院でHIVに感染したことが遺伝子の解析から明らかとなったのです。

 

さて、仮にこの歯科医師が”狂っている”としても、合計6人もの患者に故意にHIVを感染させる、などということができるでしょうか。もしそのようなことを計画したとしても、いったいどのようにすれば感染させることができるのでしょう。HIVはB型肝炎ウイルス(HBV)とは異なり、ウイルスが唾液や汗に含まれているわけではありません。仮に手袋とマスクをせずに、自分の汗や唾液が患者の口腔内に入ったとしても感染は考えられません。

 

まさか自分の精液を患者の口腔内に注入するなどということはありえないでしょうから、感染させるには、自分の血液を患者の歯肉や抜歯後の組織に付着させるという方法をとらなければなりません。しかし、たとえこの歯科医師の手に傷があったとしても、流血があるような状態でなければ感染させることはほぼ不可能です。もしも流血があるほどの手で治療をしようと思えば、周囲のスタッフや患者が気づくはずです。

 

自分の血液を採取しておいて、それを麻酔薬に加えて患者の歯肉に注射すれば感染させることは可能です。しかし通常麻酔薬は透明ですから、血液を加えれば色が付き、歯科衛生士や歯科助手にばれてしまいます。自分の血液を遠心分離機にかけて上澄み液(血漿)を採取し、麻酔薬に加えれば可能かもしれませんが、この場合も多少は色がつくはずです。それに通常、麻酔薬をシリンジ(注射器)に吸い取る行為は歯科衛生士や歯科助手がおこないますから、いつもと違うことに気付かれるはずです。故意に自分のHIVを他人に感染させる、などということが発覚すれば、歯科医師生命は終わりますから、そのようなバレやすい方法をとるとも思えません。

 

100%断定することはできませんが、現在では、このキンバリー事件の真相は、アーサー歯科医師が故意に自分のHIVを患者に感染させたのではなく、医療器具の滅菌が不充分であり、患者から患者に感染したのではないか、という意見の方が説得力があります。

 

では、なぜ歯科医師のHIVと患者のHIVが遺伝子レベルで一致したのか。仮説の域を出ませんが、一応は納得ができる説があります。

 

次回はその「説」を紹介し、今後このようなことがアメリカで、そして日本を含む他の国でもおこりうるのか。歯科医院だけでなく一般の医療機関ではどうなのか。そしてこのような悲劇を防ぐために、医療機関は、行政は、そして患者は何をすべきなのか、などについて検討していきたいと思います。
注1:米国ではほとんどのマスコミがこの事件を報道しています。Reuterでは「Oklahoma warns 7,000 dental patients of HIV, hepatitis risk」というタイトルで詳しく報じています。下記URLを参照ください。
http://www.reuters.com/article/2013/03/29/us-usa-health-oklahoma-idUSBRE92S0DN20130329

 

参考:GINAと共に第21回(2008年3月)「院内感染のリスク」